SFで使い古されたアイデアに、2人の人格が互いに入れ替わるというものがある。
小説に始まり映画にドラマ果ては漫画まで、精神あるいは肉体を交換する(どっちでも同じ事だが)話はそれこそ掃いて捨てるほどあるようだ。
このお互いの肉体を交換するという考えは、一見素敵な思いつきのようだが実はどうしようもない欠点があると私は考える。
技術的な問題はこの際度外視するとしても、他人の肉体を手に入れた者の末路は発狂しかないと断定する。
それは何故か?
簡単に言ってしまえば五感の違いである。
人間の脳というのは定められた経路を伝って情報を伝達するような汎用のハードではない。
個々人によってその構造は異なる。
分かりやすい例えをするならモニターやスピーカーは、同じ映像・音源を出力していても製品によって全く違う発色や音質を表す。
ある程度客観的に統一しようとされている工業品ですら違いがあるのだ。
そのような第三者の管制など全く無い個人の感覚は、実際にはどれだけかけ離れているのかは想像を絶する。
自分が青として認識している色が、他の人の視覚情報では黄色く見えていることもあるだろう。
しかし、両人とも自分が見ているその色が青だと理解しているのだから双方に齟齬をきたす事は無い。
結局自分が五感で得ている情報は、絶対的なものではなく主観的なものだということだ。
誰もが自分の身体を使って生活を送る分には何の問題も無いであろうが、ひとたび他人の肉体を使用して外部の情報を知覚しようとすればどうなるか。
視覚、聴覚、嗅覚だけを考えても恐ろしい結果が待っていることだろう。
世の中は恐ろしい色彩に溢れ曖昧な像を結び、得体の知れない音響が耳朶を容赦無く震わせる。
生命維持に不可欠な酸素でさえ、肉体と精神の相性によっては耐え難い異臭となって流れ込んでくるかもしれない。
圧倒的なその異常な情報の洪水に、人間の精神は耐える事などできはしないだろう。
人間は自分たちが思っている以上に共有できるものが少ないのかもしれない。
個人は互いにとてもかけ離れた異種で理解の糸口さえ掴めず、途方も無く孤独な存在なのかもしれない。
しかし、満天の星空を共に眺め意識が凍りつくような感動を味わう瞬間や、なんの屈託も無く思考が止まるほどひたすらに笑いあう瞬間。
黄金のような密度と重さを持つそんな時間に、互いがその感覚の全てを共有していると感じることは、決して幻ではないと私は確信する。
記憶の格納どうなっとんねん、とかツッコみだしたらキリがないべ。
しかしそういえば、(西?)欧州人の目には一般的に、僕らの目よりは明るい世界が見えてるらしいね。
僕らには永遠に、本物のゴッホの黄色を視ることはできないんだな。残念
見ているものは同じ黄色なんだけど、ゴッホの見た熱い黄色は俺らには分からずじまいなんだろうね。
他にも欧米人の目は一点を集中するように見て、東洋人の視線は全体を見るともなく見る。ということも最近の研究で分かってるらしいよ。 まあこれは身体的特徴ではないだろうけどね。