書くことが特に無いので昔話でもしようか。
あれは俺がまだ19~20歳くらいの頃だったろうか…
秋も深まりつつある紅と黄金の東北地方を流れていた俺は、青森の村…というか町外れを歩いていた。
日が暮れ始めたので寝場所を物色しながら歩いていたのだが、めぼしい公園も河原も無い。
どんどん暗くなる秋の陽の短さに焦りながらきょろきょろと辺りを見回すも、あるのは刈り取りの終わった田んぼばかりである。
悩んだ末に俺は決断した。
もう刈り取りは済んでるんだから田んぼに泊まっちゃえ。
決断したなら急がねばならない。 秋の陽はつるべ落としと昔の誰かも言っている。
さっさとテントを引っ張り出して設営。 刈り取った稲の株が残っていないところを探して手早く立てる。
東北の秋は寒いのでシェラフに脚を突っ込んでテントから上半身を出し、晩飯のために湯を沸かそうとストーブを用意する。
点火して晩飯の準備だ~と気持ちが食い物の方へ行って弛緩しまくっている時にソレは頭上から降ってきた。
「あqすぇぉp;@ながまtgrbwy!」
突然意味の分からないわめき声を聞いて、俺は太鼓の上に乗せられた芋虫のように飛び上がった。
あわててテントから這い出し後ろを見ると、その辺の松の木と同じくらいは生きてそうなしわくちゃなお婆さんが俺を見下ろしている。
残照を背にしたお婆さんの顔の辺りはぽっかりと闇が口を開けており、その表情は全く分からない。
「qすぇdrftgyふtghljkws!」
また何か大声で言っている。
喋りながらテントとストーブを指差しているので俺は理解した。
ああ、きっとここはお婆さん家の田んぼで、勝手に進入して火まで使っている俺を怒っているんだな。
実際悪い事をしているんだという感覚は田んぼに入った時からあったので、素直に謝った。
謝って火を止め、テントを撤収しようとした俺に、お婆さんは手招きをした。
大人しく近寄ると俺の手を引いて歩き出そうとする。
流石に俺は焦った。
全財産を田んぼに広げっぱなしで理解不能な言葉をわめき続けるお婆さんに連れ去られているのだ。
現実感がお婆さんに握られている手からどんどん流れ出ていってしまうような感覚。
俺が一生懸命、リュックに物をしまわせてと言ってもまるで通用しない。
手は簡単に振り払えるだろうが、罪悪感があるためにそれもできない。
頭の中がこんがらがっている間に一番近い民家まで着ていた。
お婆さんは手を離してくれたが、家の裏口から入って来いとしきりに手招きしている。
あいかわらず何を言われているか分からない。
まさか方言がこれほど標準語とかけ離れているとは思っていなかった。
まるで外国語だ。
どうしようもないので勝手口から家に上がる。
そこは当然台所だった。 お婆さんはまた何かを大声で喋りながら俺を食卓の椅子に座らせた。
…こりゃあ、家の主が出てきてこっぴどく怒られるな。 おとなしく神社にでも泊まればよかった…
覚悟を決めつつもガックリと肩を落とし俯いていた俺の前にいきなり何かがドン!と置かれた。
ん?なんだ?親父が現れてテーブルでも叩いたか?
顔を上げた俺の目の前に置かれていたのは漬け物。
え?何で漬け物? いぶかしむ俺を余所に食卓の上にドンドンと置かれる器たち。
煮物、おひたし、焼き魚、味噌汁…そしてほかほかのご飯、しかも山盛り。
呆然とお婆さんを見ると、さっきまでと同じくまくし立てるように話しかけてきた。
しかし、食卓の上の蛍光灯に照らされたその顔は、人懐っこい温かい笑顔だった。
俺、怒られてたんじゃなかったんだ!
ほっとして一気に力が抜ける。 本気で袋叩きにされる事も考えていたのだ。
緊張から解放されて、逆に変な汗が噴き出してきた。
そして自分が腹ペコな事に気づいた俺は、相変わらず何を言っているのか分からない話に笑顔で頷きながら晩御飯を腹一杯ご馳走になった。
その後テントを撤収してそのお宅に泊めてもらい、お婆さんの息子夫婦といろいろな話をした。
お婆さんくらい訛りがスゴイ人はその辺でもだいぶ少なくなっているらしい。
何だかちょっと安心したような、残念な気がするような複雑な思いだった。
結局その夜は酒を飲んで語り明かした。
酒が入ると息子さん(と言っても当時の俺から見ればお爺さんだが)も訛りが強くなって、何を言ってるんだかさっぱりだった。
標準語だったとしても、酔っ払ってろれつが回ってないのでどっちにしろ同じだったけど。
話が良く分からなくてもお互い楽しくて大いに盛り上がった。
朝、お礼を言って家から出た時は、まだ足がふらついていた。
素敵な出会いだったけどやっぱり悪い事だと思うので、それ以来田んぼには入らないことにしている。